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オリエント急行・体験記 その2    ツノピーお勧め鉄道の旅

オリエント急行体験記(Part 2)

一度目は、パリからミラノまで
 この当時は、ソ連の国営航空「アエロフロート」が安くて速くて便利でした。当時は羽田からソ連製の旅客機「イリユーシンIL62」に、よくお世話になりました。爆撃機からの改造なので機体は堅牢で、パイロットは軍人出身だとの噂でした。羽田を飛び立つと、すぐに機内サービスのキャビアが出たことを思い出します。8時間余で、一端ソ連の「シェレメチェボ空港」に降ります。3時間余の休憩の後、再び飛び立ち夕陽に向かって飛行しました。夕方にパリの「オルリー空港」に到着し、タクシーがシャンゼリゼー通りに入るとライトアップされた凱旋門が突然目の前に現れました。これが私のヨーロッパとの初対面で、その時に感激は未だに忘れません。さてパリの見学を終えて、いよいよオリエント急行に乗る時が来ました。パリのリヨン駅で夕食を済ませホームへ出ると、憧れのオリエント急行に対面しました。よくテレビで紹介される豪華な車両ではありませんでしたが、映画「オリエント急行殺人事件」でお馴染みのチーク造りの重厚な車両でした。隣りの個室との連絡ドアーがあり、室内には折りたたみ式の洗面台や例の「おまる」まで戸棚に入っていました。幅広いベッドはツインで、清潔なシーツが敷かれていました。暗いフランスの原野を走り、翌朝目を覚ますと列車はジュラ山地を越えていました。間もなくスイスに入ると、ジュネーブを通りレマン湖岸を走りました。やがてマッターホルン方面の分岐点「ブリーグ」に着き、朝食用の牛乳をホームの売店で買いました。売店のおじさんに「ドウーエ・ラッティ(牛乳二つ)」と習いたてのイタリア語が通じ、感動した覚えがあります。列車は当時は世界最長の「シンプロン・トンネル」を潜り、イタリアへ入りました。列車がミラノに着いて、途中から同室したアメリカのポートランドから来た教員夫妻とお別れしました。当時は出発前に、日本の旅行社で個室の予約をして行きました。

    
イタリアの駅弁には、赤ワインが付いていました。ミラノ中央駅に着きました。

二度目は、ブルガリアからトルコへ

 1976年に,当時は社会主義国だった東ヨーロッパの国々を回りました。例によってアエロフロートでモスクワに一泊し、翌日ルーマニアのブカレストへ飛びました。ブカレストからは列車で、ブルガリアのソフィアまで行きました。当時の社会主義国では、原則として個人旅行は出来ませんでした。代表的なのはソ連の「インツーリスト社」で、旅の初めから終わりまで添乗員が付添いました。ある意味では便利な制度でしたが、行動の自由が無く監視付き旅行という感じは否めませんでした。当時はブルガリアも社会主義国でしたが、私たちはホテルの予約なしでソフィアへ着きました。駅舎を出ると、なんと一人のオジサンが近づいてきました。片言の英語で、ホテルを紹介すると言います。誘われるままに、駅前から路面電車に乗りました。電車は中央通りを走ると、なんとソフィア一のホテルに着きました。例のオジサンは「あのホテルだよ!」と指をさして、そそくさと立ち去ろうとします。慌ててお金を出しましたが、受け取ろうとしません。訳が分からないままアメリカの5ドル紙幣を出しますと、何とか受け取ってオジサンは立ち去りました。幸いにもホテルに部屋がありましたが、この一件は未だに訳がわかりません。翌日はソフィア見学の合間に、ソフィア中央駅で「オリエント急行」の部屋をトルコのイスタンブールまで予約しました。駅の窓口は、国内用と国外用に分かれていました。窓口の係りは、どうしたものか英語が分かりません。困ったと思っていたら、傍にいた女性が綺麗な英語で通訳してくれました。正に、「窮すれば通ずる」の諺どおりでした。いま考えると現地でオリエント急行を予約するなんて、大胆なことでした。やはり旅行前に、予約していくべきでしたね。
 
オリエント急行を前にして。ドイツ語で「寝台車」の標示と、パリ・イスタンブールの駅名が見えます。

 
個室の洗面台を下ろすと、鏡が現れました。
 

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