ピレネー地方に住む
バスクの民に幸あれ(1974年8月の旅)-Part2
いよいよピレネー越え
さて定時になって駅に戻ると、お目当ての列車が見当たりません。変だなと思っていたら、傍のオバサンが「あのバスだよ!」と指さして教えてくれました。何とまあ、ここからは鉄道が廃線となっていて、バス輸送に切り替わっていたのです。これは定評がある「トーマス・クック社」の時刻表にも、記載がありませんでした。慌てて乗ると、車内はすでに満席です。幸か不幸か、私たちは最全部の席に座りました。ふと隣りを見ると、最前のオバサンと連れの娘さんが座っています。その娘さんの顔をみて、アッっと驚きました。彫刻のような整った顔は、ミロのヴィーナスそっくりです。なるほどヴィーナスは彫刻だけでは無く、現実にいるんだなと納得しました。そのお嬢さんは空色の瞳をして、ニッコリ微笑んでくれました。バスは一路、ピレネーの峠を目ざして登ります。右手には、廃線になった線路が見えます。鉄道で行くと長いトンネルのピレネー越えも、バスはゆっくり峠を登ります。古い褶曲山脈のピレネーには、所々に氷河が削ったカール(圏谷)が見えます。緑なす草原には、羊の群れが白い点々を描いています。ここは正に、山バスクの故郷のようです。
バスは、フランス側の国境に着きました。当時の人気俳優「アラン・ドロン」のようにハンサムな係官が、バスに乗り込んで来ました。乗客のパスポートを一人一人チェックしています。どうやら異邦人は、私たちだけのようです。一瞬いやな予感がしました。果せるかな「ドロン氏」は、私たちのパスポートを持って降りて行ってしまいました。さあ、困ったぞ。一瞬、私の顔が曇ったらしい。それを見たヴィーナス嬢が「大丈夫よ!」と、目で合図してくれます。窓から外の監視員小屋を眺めると、先ほどのドロン氏が何やら電話で話しています。どうやら私たちのパスポートを、当局に照会している様子です。思わずバスを降りて説明にと腰を挙げると、回りの人たちが「大丈夫だ、じっとしていろ」と制してくれます。そこには言葉は通じませんが、温かい友情を感じました。私たちの事情で大勢の乗客を待たすのも、何とも申し訳ありません。15分も経ったでしょうかでしょうか、ドロン氏がパスポートを手に戻って来ました。彼は「ボン!(いいよ)」と言って、私たちにパスポートを返してくれました。車内には、一瞬安堵の空気が流れました。帰国してから判明したことですが、当時は赤軍派なる人々が偽装にアベックを装って海外を移動していたとのことでした。私たちも、その嫌疑に懸ったのかもしれません。隣りのヴィーナス嬢に「フィニ?(終わったの)」と聞くと、「ウイ、フィニ(そうよ、終わったのよ)」とニッコリ答えてくれました。空色の瞳は、ピレネーの空の色そのものでした。誰か後ろの方で、「ハポネス(日本人)!」と言う声がしました。みんなが一斉に笑ったので、「ここにも、日本人がいるぞ!」と冗談を言ってたようです。
さて、バスは鞍部の「ソンポール峠」に着きました。今度は、スペイン側の役人が現れました。一瞬緊張しましたが、こちらは何も調べず運転手と冗談を言って無事に通してくれました。後で調べると、この峠はスペインの聖地「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」への巡礼の道(星の道)でした。

ピレネーの麓に立つ私も若かった。スペイン側の地形は、荒涼としていました。
ピレネーを越えると、そこはアフリカだ
バスが峠を越えると、辺りの風景は一変しました。途端に緑の草原が消え、荒々しい大地が現れました。バスは両側を崖に挟まれた道を、ひたすら下ります。古来から曰く、「ピレネーの向こうは、アフリカだ」の言葉どおりの風景です。川の流れにも、水がありません。乾いた大地には、農業は不向きのようです。下ること1時間余で、麓の町「Canfranc」に着きました。ここから再び、列車の旅に変わります。ホームでヴィーナス嬢とオバサンにお礼を言って、列車に乗りました。乗ること30分で、列車は「Jaka(ハカ)」に着きました。そろそろ夕方になり、今夜はここで1泊することにしました。予約無しのホテルは満室でしたが、近所の「アビタシオン(民宿)」を紹介してくれました。ここハカは、スペイン内戦の時代に共和国側で戦ったイギリスの作家「ジョージ・オーウェル」が負傷した場所だと後に知りました。旅に出ると、得てしてこんな事があります。かくして、ピレネー横断の旅を無事に終えることができました。

突然列車が停まると、前方の線路に大きな岩が落ちていました。線路は間もなく復旧して、無事にビルバオに着きました。北部バスクの中心地「ビルバオ」は、スペイン有数の工業都市です。
ビルバオの中心街です。
バスクの聖地「ゲルニカ」を訪ねる
ピレネー山地に住む「山バスク」に対して、ビスケー湾沿いに「海バスク」があります。私たちは北部バスクの中心地「ビルバオ」に滞在して、バスクの聖地「ゲルニカ」を訪ねることにしました。「ゲルニカ」と言えば、画家ピカソの名作に名を残しています。スペインの内戦時代に選挙で選ばれた正統な政府に反旗を翻したフランコ軍は、1937年4月ナチス・ドイツ空軍の応援で共和国側バスクの聖地「ゲルニカ」を爆撃し民間人に多くの犠牲者を出しました。これ以後の第二次世界大戦で激化した「無差別爆撃」の嚆矢が、ここに見られます。画家「ピカソ」はこれに抗議して、名作「ゲルニカ」を製作したことは余りにも有名です。
いよいよゲルニカ訪問の日を迎えて、当日の朝ビルバオのホテルを出ました。事前の調べでは、ビルバオからゲルニカへ鉄道があるはずです。とりあえず、タクシーで駅へ向かいます。駅に着いたのですが、あいにく列車が出たところでした。よく考えたら、このままタクシーで行っても遠くはないはずです。運転手に「ゲルニカ」までと言うと、彼も喜んで同意してくれました。車は内陸の山地を走ります。辺りの風景は、さながら長野の山奥にそっくりです。この地方には松が多いのも、日本の風景を想わせるのでしょうか。
途中の「アモールアヴィエルタ(開いた愛?)」から道は左に折れ、一気に山地を下りました。走ること30分余で、まもなく「ゲルニカ」の市街地に入りました。赤い屋根の家並みが続く中心部には国会議事堂があり、中庭にはバスク自治の象徴である「聖なる樫の木」がありました。案内を乞うと、若い女性が現れました。突然の訪問にも拘わらず、彼女は心良く案内に応じてくれました。彼女自身も黒い眼に黒髪で、典型的なバスク人のようです。議事堂内に入ると、分かりやすい英語で説明してくれました。壁にはバスク出身の著名な人々が、肖像画になって飾られています。バスク人と言えば、何よりもまず日本にキリスト教を伝えた「フランシスコ・ザビエル」がいます。彼はピレネー山麓の「ザビエル城(スペイン語で、ハビエル)」で、城主の子として生まれました。そのザビエルについて聞いてみましたが、私の発音が悪かったのか答えがありませんでした。そう言えば世界一周のマゼランが途中のフィリッピンで死んだ後、部下を率いて一周を成し遂げたのもバスク人の「エル・カノ」です。バスクの人々は中南米を初め世界中に、移民として移り住んでいます。その数は、本国にいる人よりも多いかも知れません

バスクの議事堂前に立つ妻と、案内のバスク嬢です。それにしても、体型がずいぶん違いますね。二人の後ろには、バスク自治の象徴である「聖なる樫の木」が立っています。
バスクの議事堂前に立つ妻と、案内のバスク嬢です。それにしても、体型がずいぶん違いますね。二人の後ろには、バスク自治の象徴である「聖なる樫の木」が立っています。
バスクの議事堂前に立つ妻と、案内のバスク嬢です。それにしても、体型がずいぶん違いますね。二人の後ろには、バスク自治の象徴である「聖なる樫の木」が立っています。

ゲルニカの広場を背後に立つ妻です。
この辺りも、ナチス空軍の猛爆で破壊されたのでしょうか。

ローカル駅の「アルサスア」です。左に妻の姿が見えます。
バスク独立の悲願
バスクには、4+3=1という言い伝えがあります。これはスペイン側バスクの4州と、フランス側バスクの3州が独立すれば一つになると言う意味です。過去にもバスク独立の試みは、たびたびありました。近年では1936年に、スペインで選挙による「共和制政府」が樹立された時のことです。これを絶好の機会として、バスクでは自治共和国を誕生させました。一度は独立したバスク共和国は、フランコ独裁政権により直ちに倒されました。その象徴として、フランコを支援したドイツ空軍によるバスクの首都「ゲルニカ」の爆撃がありました。これに抗議して、画家ピカソは名画「ゲルニカ」を描きました。
議事堂の見学を終えた私たちは、街の広場に向いました。昼下がりの広場には、バスク人が三々五々としてベンチに憩っていました。年輩の男性は、いずれもバスクの象徴である「ベレー帽」をかぶっています。今は平和な町並みにバスク独立の達成を願って、ゲルニカを辞去しました。
スペイン・フランス両国にまたがるバスクの独立は、今日でも達成されていません。近年では「バスク独立連盟」が、テロによる独立運動を続けています。バスクの地に独立が訪れることを、心から祈ってこのページを終わりに致します。

ピレネー山麓のパンプローナは、さながら桃源郷でした。
スペインからフランスに入る車両は、ジャッキでも持ち上げて線路幅が違う台車を交換していました。この間に乗客は乗ったままで、実に珍しい風景です。

スペイン国鉄(RENFE)発行の予約券です。
ビルバオから、ミランダまでの座席券のようです。
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